Archive for 2017年2月27日

2月27日(月)放送

南三陸町志津川「しお彩」後藤一美さん
佐々木淳吾アナウンサー取材リポート

今週3/3(木)に、南三陸町に新しい本設商店街「南三陸さんさん商店街」がオープンします。今回はそこに食堂を出店する南三陸町出身の後藤一美さんにお会いしました。震災前は、志津川地区で地元の海の幸を提供する食堂を経営していましたが、津波で自宅と食堂を失い、昨年末に仮設住宅に暮らしながら、惣菜の移動販売で生計を立てていました。現在は、新しく造成された高台に自宅を再建し、奥様とお子さん3人の5人で暮らしています。
 当時、奥さんのお腹には9カ月になる赤ちゃんがいたためすぐ車で駆けつけ、車に乗せて長女とともに小学校へ避難しました。長男は入谷地区の幼稚園に通園していたため、全く行動が別になり2日後に後藤さんが山を越えて迎えに行きました。子どもたちは3人とも無事でした。当時お腹にいたお子さんは来年小学1年生になります。震災前の街並みを知らないので、仮設住宅を「大きい家でしょ」と自慢していたそうです。
 その震災から間もなく丸6年。今後は「料理を通じて南三力の魅力を伝える」目標を持って、さんさん商店街という新しい場所で復活します。小学校4年生になる長男の作文「僕の夢はしお彩です」という夢を背負って、再出発します。

新しい生活へ…石巻専修大学を卒業する川上大樹さん
伊藤晋平アナウンサー取材リポート

 仙台市荒浜は川上さんにとって大変大事な場所です。きょうは、就職して宮城県を離れる前にどうしても行きたかった荒浜で話を伺いました。この場所は、震災で亡くなった友人の名前が刻んである慰霊碑があります。その友人は、川上さんにとって高校時代、部活が一緒だった、同じ時間を共有し切磋琢磨しあった大切な人です。この友人の死をきっかけに自分自身の将来も考え直しました。
 川上さんは、石巻専修大学で4年間復興支援活動に携わり、4年間でたくさんの人に関わり、学んだことに感謝し旅立ちます。就職先は、正確な情報が伝達されずになくなった友人を思い、情報を伝えるためのアンテナを設置する会社を選んだそうです。研修は神戸というめぐりあわせに、「縁を感じる」と話してくれました。
また、4年間、震災復興支援を学んだ山崎ゼミナールの顧問の先生も川上さんの卒業「右腕を失うようだ」と、とても残念がったそうです。取材のあとには荒浜の観音像に静かに長い時間手を合わせていました。

2月20日(月)放送

伊里前福幸商店街 高橋武一さん
古野真也アナウンサー取材リポート

 南三陸町では、何百年に一度、何十年に一度災害が起こっている町です。その都度沿岸部の街は流されたり、死者が出てしまったりという過去があります。しかしその度に、復活して再生をしている歴史上から、東日本大震災から「再生」できないわけではない、と高橋さんは話します。現在、仮設の仮設で商売をしている歌津地区の福幸商店街は2017年の4月に本設に移動します。
 商店街は、仮設商店街から6店舗、新たに2店舗の8店でのスタートになるそうです。現在、7mの盛土、駐車場も作られ建物の枠組みが組まれ、今までとはちょっと違う商店街に変化します。その名は「南三陸ハマーレ歌津」と名前を変えての営業です。小中学校、漁協など地域のコミュニティの中核を担います。地元の方々が、楽しんで新しい拠点づくりをしている姿が印象的でした。
 街づくりは、一から作る楽しみもあり、2017年4月のオープンがとても楽しみな商店街の一つになりそうです。

石巻市南浜地区 南浜つなぐ館 中川政治さん
伊藤晋平アナウンサー取材リポート

 石巻市の南浜地区は震災前、1000世帯以上の方々が暮らしていました。震災遺構になる門脇小学校も近くにありますが、今は災害危険区域となっているため、この場所で生活をすることはできません。今後、2020年にはこの場所に復興祈念公園が出来る予定です。
 中川さんは、京都の出身で震災のニュースを聴き石巻市にボランティアとして入ってきました。この「南浜つなぐ館」は、震災前の南浜地区の再現したジオラマ、VRスコープなど震災時の風景を見る事が出来ます。
被災して、何もない南浜で、震災前、震災後の風景を忘れない、風化させないためにも「記録」「記憶」を残す、みることのできる場所として今後もこの地で、街の状況を伝えていきます。つなぐ館では、みんなの記録を収集することもしています。今後50年、100年後の後世にもこの地で何が起こったかを知らせる施設としてその役割を担っていく予定です。

◆お知らせ◆
ゆりあげさいかい市場5周年感謝祭
日時:平成29年2月25日(土)
   午前10時~午後2時まで

名取の特産品を「めしませ、なとりセット」(赤貝の握り、笹かま、せり鍋、新酒など)を600円で販売します。
その他ティーナカリーナの歌謡祭や、まぐろの解体ショーなども行われる予定です。ぜひ足をお運びください。
詳しくは、
http://yuriageasaichi.com/
まで。

2月13日(月)放送

南三陸 民宿下道荘 菅原由輝さん
古野真也アナウンサー 取材リポート

今年37歳を迎えた菅原さんは、小さいころから実家の民宿を継ぐため調理専門学校で料理を学んだ後、秋保のホテルやお店を経て、現在民宿の経営をしています。この下道荘は、南三陸の海が一望できる高台に建っています。この高台はもとは竹藪で、土地の持ち主に何度も頭を下げて譲って貰いました。
 震災前、民宿下道荘はもっと沿岸よりで、海から500mのところにあり震災の時、民宿は40m引き波でながされて1階がつぶれてしまいました。自宅も大規模半壊でした。
 津波に襲われたあと、親戚の家でおばあさまをみてもらっていましたが、その送迎の帰り道に、先代である菅原さんのお父さまが泣きながら「今まで30年、なんだったのか…」と菅原さんに心のうちを明かしたそうです。
 その姿を見て、被災後1週間後には家族で民宿再建を心に誓いました。その一方で民宿経営について不安や苦悩も抱えました。家族を養っていけるか、南三陸町が元のように観光でにぎわう町になるのか…しかし震災からわずか11カ月の2012年2月17日に民宿を再開し現在も工事従事者を中心にお客さまを迎え入れています。
 これからも、故郷である南三陸の良さ、海の幸山の幸のおいしさをしってもらうために、地元で愛される宿にしていきたいということです。

山元町いちご農家の新たな取り組み 
山元いちご農園 大槻忍さん 村田エリカさん
林朝子アナウンサー 取材リポート

山元町にある山元いちご農園では、震災後被災したいちご農家が集まってできた農業法人です。3.1haの土地に10棟余りのイチゴハウスが立ち並び、まさに今収穫時期を迎えています。
こちらのイチゴ栽培には、なんとイチゴのためのクラシックを作曲して、その曲を聴かせて成長させる栽培方法を実行しています。震災後、県外の醸造会社にイチゴワインを委託してつくっていましたが、去年12月に新たにレンガ作りの建物、イチゴのワイナリーを作ったためイチゴの栽培からワイン製造まで一貫して山元町の農園でできるようになりました。
こちらで働く大槻忍さんと村田えりかさんは震災を機にこの仕事に就きました。2人とも夢を持ってこの農園でいきいきと仕事をしています。
ワインを醸造するのは3人。その中でも1番若い村田さんは22歳。ご出身は栃木県ですが、海のある、素敵な町山元町でイチゴワイン醸造の担当をしています。1年目から醸造の担当として試行錯誤の日々が続いていますが、しっかりお客様に届くいちごワインを作って町に、会社に貢献できればと思い仕事を楽しんでいます。
ここ山元いちご農園内のカフェ「ベリーベリーラボ」では、スパークリングワインの「苺夢(べりーむ)」、「愛苺(まないちご)」「苺香(いちかおり)」が試飲できます。是非一度訪れてその味をお試しください。

2月6日(月)放送

仙台市青葉区国見町が行う「外国人留学生の防災・減災」
鈴木実森アナウンサー取材リポート

仙台市青葉区国見地区在住の留学生を招いて1/16(月祝)に行われた「防災ボランティア表彰式」ですが、仙台市からは6団体が表彰されました。国見地区連合町内会東部ブロックは、独自に避難所運営マニュアル「外国人留学生の連携及び対応」を定めたことで表彰されました。
 ここ仙台市青葉区国見町には、東北大学への留学生が多く住んでいて、地域連携をとるためには外国人とのコミュニケーションが必須です。およそ900人が住む国見町では、それぞれの出身国によって災害が多い国、そうでない国、宗教によって食せない食べ物があったり言葉が通じなかったり等、東日本大震災では困った事もたくさんありました。
その経験を踏まえて、今後災害が起こった場合にはいかに連携をとって外国人のサポートをしていくかを考えていかなければなりません。
 留学生は、入卒業や帰国などで入れ替わりが毎年あります。外国人留学生は、先輩などから震災の被害や状況を見聞きして災害に備えています。それぞれに危機感を持ち自分なりの対策を講じなければなりません。今後は、地域で防災意識を高くもち、国の垣根を越えて防災・減災をともに連携して行っていく必要性が求められます。

南三陸町志津川町 「仮設からやっと自宅再建へ」 佐藤怜子さん
林 朝子アナウンサー取材リポート

佐藤さんは震災時に南三陸町内で被災し、長らく志津川高校グラウンドにある仮設住宅に住んでいましたが、去年10月ようやく町内に自宅を再建し、新井田地区に自宅を再建しました。
佐藤さんは、戦後結婚を機に夫の家業の商店を手伝うために南三陸町に移り住みました。十日町で文具や教科書、米などを販売する「佐竹商店」を営んでいましたが、震災で自宅兼商店は津波で流されてしまいました。その後避難所に身を寄せましたがペットの大きい犬がいたため、紫波姫の長男の家に避難します。その後、志津川高校の仮設グランドの抽選にあたって犬と2人で暮らし始めました。
混乱からの仮設住宅暮らしも、周辺のみなさんとの絆により楽しく生活を送ることが出来ました。
 今、高台へと移り住んで日々変わりゆく街並みを見ながら、終の住みかを得て弟夫婦と孫とで暮らす日々。。。変わりゆく町に期待を込めながらこんなものがあったらいいな、こうなったらいいな、と思いをはせます。