Archive for 2017年5月22日

5月22日(月)放送

東京都門前仲町 三陸港町酒場「女川男」
伊藤晋平アナウンサーリポート

 東京都門前仲町にある「女川男(おながわまん)」というお店を訪ねました。店長の小倉直樹さんは、三陸宮城の食材を中心に料理を提供し、営業をしています。小倉さんは震災後、お店の中でお客さんが「競り」を体験できるイベントなどを行い、それが好評で、東京でも店長を任せられ出店しました。
 はじめは、東京での「仕入れ」のルートづくりには、勝手がわからず大変苦労をしたそうです。しかし三陸の食材にこだわった居酒屋営業を続けることで、復興や現状をお客さんに実際に感じてもらえると信じて仕事を続けました。貴重な時間だったと話します。
 東京ではこれからも、地元女川のの材を提供してくれる漁師さんたちの思いを背負いながら、現場に立ち続けたいと話します。東京に

仙台市 荒浜で定点撮影を続ける 佐藤 豊さん
林 朝子アナウンサーリポート

佐藤さんは、津波発生時荒浜にいて、95歳のお母さんと、車椅子生活を続けるお友達を助けようと車で向かいます。
大きな揺れと津波の心配から2人を連れて避難所へ逃げようと思いました。しかし車には、カメラの機材が積んであったため、のせられなかったため、撮影用のカメラ機材を全部下して2人をのせて避難所へ逃げました。
津波から逃げる時、写真家としてのカメラマン魂からかいつも車に積んであるカメラで撮影したいと思い、いつも通り後部座席に手を伸ばしました。…が、あるはずのカメラは、先ほど下したためなく、早く逃げなければと我に返ったそうです。それが生死をわける行動だったのではないか、と考えます。
あれから6年、震災で親せきや家族を失った佐藤さん。生き延びた使命もあっていま、荒浜の定点撮影を続けています。海水浴場や親せきの集まりで笑顔が絶えなかったあの日の荒浜の光景を、忘れさせないためにも自分の活動があると思っています。家族や親せきだけでなく、荒浜で育ったみんなの生きた証を佐藤さんは撮影し続けます。
今年の8月に、佐藤さんはみんなから寄せられた写真や自分の撮影してきた荒浜の風景写真の展示会を行うそうです。自分が行った失敗談などを、今後の防災に生かすためにも、写真展で伝えたいということです。あの時車で逃げてしまった、写真撮影をしようと思ってしまったなどの後悔も

5月15日(月)放送

石巻市乳幼児保育園 ミルク 園長 相原かよみさん
大久保悠アナウンサーリポート

人口が急増している石巻市の新蛇田地区に石巻市乳幼児保育園「ミルク」があります。大型ショッピングモールもほど近いインターを降りてすぐの場所にありこの4月から0~5歳まで合わせて60人を受け入れる認定保育園として開園しました。園児39人、保育士9人看護師2人、調理員あわせて16人が勤務しています。
ミルクでは、以前から「体調不良児対応型」の保育に取り組んできて、「石巻で働きながら子育てをする親御さんの力になりたい」という思いが強く、保育中に体調不調となった子供を保護者が迎えに来るまで、看護師が保育士さんに代わって保育するというものです。この体調不良児は2日以上預かれない、というルールがあるため、5月から「病児・病後児保育」に本格的に取り組むことになりました。現在は病気、または病気の回復期、感染症のお子さんがいた場合を含めて部屋も増やして整備しています。
園長の相原さんは、震災時、認可外保育園「あいはら」を経営していました。門脇という地域だったため、震災当時は園児を保護者に引き渡すまで4日ほどかかりました。防災意識の高い保育士、保護者も決まりを守り全員無事だったそうです。
震災後は、危険区域に指定されたため保育園は閉園となりましたが、今、震災前からずっと一緒に働いてきた保育士さんたちと一緒に新たな場所で再開しました。新蛇田地区は、新たに家を新築する人が多く、3世代で同居している家族が多いそうです。子どもたちもおじいちゃんやおばあちゃんが好きな子供が多く、地域では今後、一人暮らしの高齢者の方と一緒に運動会をしていく予定もあるそうです。保育の現場が、新たなコミュニティになるように今後も地域の方々と連携していくそうです。

みやぎ手打ちそば研究会 柏倉寛充さん
伊藤晋平アナウンサー

みやぎそば打ち研究会とは、震災後に発足した会でそばを通して、被災地や地元みやぎに元気を届けよう、取り戻そうと活動し、研究会は今年で7年目に入りました。
震災後は、趣味のそばづくりをなんとかいかそうと、仲間と仮設住宅をまわってそばをふるまったり、そば打ちのパフォーマンスをしたりなどして、地域貢献を行ってきました。震災後7年目を迎え、目に見える復興は進みましたが、被災された方の心の部分には、まだ深い傷が残っていることを感じたそうです。毎年、継続して仮設住宅や集会所などをまわっていくと、その感覚をいまだ肌で感じることがあります。
現在、「そば」は日本にとどまらず世界の共通語としてとらえられています。柏倉さんの研究会も海外でのパフォーマンスのためにキューバ、アメリカへ向かいました。海外でのそば作りは、水の硬さや気候によって日本とは全く異なる仕上がりになってしまうため、場所毎に「そば」に向き合っていかなければなりません。この難しさもそば打ちの魅力ととらえ、奥深いそば作りを心掛けていきたいとお話しくださいました。
宮城県も、秋保地区で地元産のそば粉と水にこだわってつくる特産品「そば」を地元の目玉として売り出していく予定です。おいしいそばを食べたくなったら秋保へ、とみんなが思ってくれるような聖地にしていきたいとお話ししてくださいました。

5月8日(月)放送

神戸子ども総合総合専門学院 山田利行さん
藤沢智子アナウンサー インタビュー

 スタジオには、兵庫県明石市から保育士養成校 神戸こども総合専門学院の講師、山田利行さんにお越しいただきお話を伺いました。
山田さんは2013年の夏から何度も宮城県の被災地(石巻市など10ヵ所)に通い、子供たちの様子を探り、長い時間をかけて見守りを行いました。兵庫県も阪神淡路大震災で被災したことから、子供の心のケアを心配し「見た目」と「心」の変化を探るためだったそうです。
 子どもたちを見ていると、震災後から「遠慮」をしながら遊びをしていると感じることもありました。遊ぶということは「遊べる環境」が普通にあるこということです。
 特に気を付けたのは、必ず遊びで子どもと関わる時に「折り紙」を置くことにあったそうです。折り紙は折らなくてもちょっとしたメモ用紙に早変わりし絵を描く、話のきっかけにもなる道具でもあります。
「折り紙」は、三角を折るところからきれいな立体の作品ができあがります。指先を動かす、先生に聞く、折り方を習うなど「学び」の要素が詰まっていてますので、狭い仮設住宅や静かに時間を過ごさなければならない場所での遊びにも適しています。子どもの発達にも大きく影響があるため、場所を選ばず、現在子育て中の方にもおすすめの遊びです。
 山田さんは今後も被災地に足を運び、子供たちの変化を温かく見守っていきます。

5月1日(月)放送

石巻市職員 大橋真弥さん
マラソンに故郷の思いをのせ走る公務員ランナー
伊藤晋平アナウンサーリポート

石巻市役所に努める大橋さんは、4月17日(月)にアメリカで行われたボストンマラソンに参加し、ベストタイムの更新にはなりませんでしたが、全体で50位、日本人3位の成績で走り切りました。
 石巻市出身で、高校生の時から続けているマラソン。東京の大学進学時は残念ながら夢だった箱根駅伝には参加できませんでしたが、地元石巻市に戻っても、自分が走る事で「震災により傷ついた故郷のみんなが少しでも元気になれば」、と走り続けています。   
大橋さんは、現在市内の被災した学校の新築移転などに携わっていて、渡波中学校の移転事業も終わりひと段落しています。自分自身が高校生だった時には、勉強はあまり好きではなかった、と話す大橋さんですが、震災時に感じた「学校に行ける」「みんなが集まれる場所がある」ことが何より大事であるという思いを大変強く心に持っています。
今後は、都道府県駅伝への出場を目標に仕事との両立を考えています。地元石巻での練習では、復興へ向かう様子を走りながら日々感じ、地域の変化を自分の目で確認しながら練習に取り組んでいるそうです。石巻の復興を大きな大会で走ることでみんなに伝えていきたいと考えています。
さて大橋さんの気になる次の出場レースですが、今月5/14に行われる仙台国際ハーフマラソンです、みなさんもぜひ沿道で大きな声援を送ってください。

南三陸ハマーレ歌津オープン 高橋武一さん
林 朝子アナウンサーリポート

食料品と衣料品店8つの店が軒を連ねる「南三陸ハマーレ歌津」は、仮設商店街「伊里前復幸商店街」が本設移転をした場所です。仮設商店街からの移転には、紆余曲折、決して平たんなものではありませんでした。仮設商店街の代表のマルタケ商店 高橋武一さんに話を伺います。
 震災前、商店街は病院や役場などの中心部にあり多くの人でたいへん賑わっていました。そこで高橋さんは50年続く「マルタケ商店」の二代目として店の切り盛りをしていました。しかし震災津波で店は流され、商店街は跡形もなくなり「街が沈んでしまった…」当時は不安で何も考えられませんでした。それでも地区の方々の声が後押しとなり2011年の12月に以前の「伊里前復幸商店街」が仮設商店街として再開します。
 仮設商店街の再開は、買い物の場だけでなく地域の人の安否確認の場、再開の拠点となり、さらには近況を話し合う場所となりました。
 その本設、南三陸ハマーレ歌津の再建は、場所が都市計画の事業範囲外だったため国の予算がでるかどうかわからないままの出発。一度仮設商店街を海側に移転して、本設オープンまでに2度場所を移してからの出発となりました。
 今では小中学校、保育園、住宅地、災害公営住宅などが周囲にある「昔のような商店街の風景」、賑わいを取り戻しました。今では敷地内のベンチで小学生が宿題をする姿があったそうです。その光景に「町にとっての商店街の存在意義」が再確認されたと高橋さんは思いました。未来の子供たちにとって、この場所が故郷の大切な場所になっていくことを願っています。