8月7日(月)放送

七ヶ浜町 きずなハウスオープン
レスキューストックヤード 槇島江梨佳さん
古野真也アナウンサー 取材リポート

7月21日に宮城県七ヶ浜町に「七ヶ浜みんなの家きずなハウス」がオープンしました。ここは、七の市商店街の跡地にあり、全面ガラス張りの平屋建てで明るく開放感いっぱいです。一角に駄菓子などもおいてあります。この場所は、子供たちが気軽に集まれる「遊べる」場所で、お母さんたちも安心して子供たちを遊ばせることができます。
メンバーの槇島さんは、神戸出身の28歳。東日本大震災時には兵庫県で大学職員を仕事をしていましたが、震災後はすぐに七ヶ浜町にボランティアスタッフとして現地に入りました。当時は、大学生と一緒に七ヶ浜の子供たちと「遊ぶ」ボランティアを行っていましたが、別れ際に子どもに言われた「どうせもうこないんでしょ…」という何気ない一言に被災した子供たちのために継続的な付き合いを考え、大学を辞めて七ヶ浜町に引っ越してきたそうです。そして子どもたちが、みんな自由にくつろげ交流できる場所を踏まえ、完成したのがきずなハウスだったのです。
「子どもたちと10年かかわっていく」と決めた槇島さん。七ヶ浜町民と一緒になって6年、子供たちの居場所、お母さんたちの集える場所をつくりきずなハウスをオープンさせましたが、槇島さんは8月いっぱいで退職し運営を地域のお母さん、若者、高校生などに運営を引き継ぎます。人と人とのつながりを大切に育てた七ヶ浜町で、9月からは地元主体の経営でのスタートとなります。

塩釜市 おさんこ茶屋 鈴木雄三さん
伊藤晋平アナウンサーリポート

塩釜市元町の商店街で230年以上続く老舗のお団子屋さんを経営している鈴木さんは、震災時に地元の消防団の一員として活動をしていました。当時は給水活動で避難所をまわるなど「やれることをやろう」と尽力されたそうです。おさんこ茶屋は震災後すぐに営業を再開し、震災後も店を継続すること6年が経過しました…塩釜市内の復興が早かったことや、震災の記憶の風化などがあり、日本全国での自然災害などを見ているともっと被害が多いところに支援をしてほしい、と願うこともあるそうです。
自力で復興を成し遂げたから塩釜市であるからこそ、今後の塩釜市元町の商店街をさらに魅力ある街にしたいと現在は勉強会やイベントの開催などで活性化に力を入れています。その中でも「個々のお店の魅力をアップする」「塩釜ならではの”ものづくり”に力をいれる」など未来へ向けての施策を語ってくれました。新しい、魅力ある塩釜市の再発見と発信を地元の仲間たちとこれからも続けていきます。

7月31日(月)放送

亘理町長瀞 鈴木オルゴール工房 鈴木きよ子さん
伊藤晋平アナウンサー取材リポート

亘理町長瀞にある鈴木オルゴール工房の鈴木きよ子さんは大学を卒業後、結婚して亘理町に移り住み専業主婦をしていました。27年前にご主人をなくしその翌年から木工品の工房を立ち上げました。木工品の先生から「付加価値のあるものをつくりなさい」とアドバイスもあり、現在は工房でオルゴールの製作・販売をしています。
震災後は、津波で工房の機械が水につかりましたが、板をカットする「刃」が辛うじて直せたことが復活のきっかけで再出発できました。震災後3か月後に工房を再開し震災前に購入して下さったお客様のオルゴールを修理したこともありました。自分の制作したオルゴールが、もし壊れてしまってもお店で修理してずっと使ってもらう、この距離感が鈴木オルゴール工房の魅力ともいえるでしょう。


深沼海水浴場 限定で再開
荒浜地区 佐藤 豊さん(80)
林 朝子アナウンサー取材リポート

仙台市若林区にある深沼海水浴場が震災後初めて試験営業を行いました。地元七郷小学校と蒲生小学校の児童と保護者を対象に600人の参加を募る予定でしたが初日は雨のためイベントはすべて中止、昨日も台風による高波の影響で遊泳はできませんでした。しかし昨日は雨にほとんど打たれることなく訪れた100人近くの親子連れが砂浜やビーチバレーですいか割りなどを楽しみました。
かつて荒浜地区に住んでいた佐藤豊さんは、津波で自宅を流され現在は仙台市に暮らしながらも荒浜に足しげく通い変わりゆく景色を「定点撮影」しています。さらに震災後から月に1度行われてきた深沼海水浴場の清掃活動にも参加し続けてきました。その時すでに海水浴場の限定オープンが決まっていたこともあり、今月9日の清掃活動にも参加しました。
荒浜地区は、震災直後にこの町に戻りたいと思った住民、そうでない住民が葛藤を抱えた町でもあります。そんな地区の人々が同じ「故郷」を再び思うためにも「海がかつてのように再開すること」が一番だと佐藤さんは話します。これからも佐藤さんは、海水浴場近くで住民たちと思い出話ができる憩いの場、思い出を語る日が来る日を待ち続けます。毎月第二日曜日、深沼海水浴場近くの荒浜ロッジでお茶飲み会や海岸清掃を実施します。だれでも気軽に参加できますのでご都合があればみなさん、ご参加ください。
また、8月6日(日)~20日(日)までは、深沼海岸で「海辺の写真展」を開催しています。佐藤さんがこれまで撮影してきた荒浜の写真、海水浴場の写真、2017年度のイベントの写真も展示する予定です。

7月24日(月)放送

東松島市 大曲浜獅子舞保存会 伊藤泰廣さん
佐々木淳吾アナウンサー取材リポート

東松島市の大曲浜には300年以上昔から伝わる伝統の獅子舞があり、旧正月に各家庭を回って披露されてきました。昭和48年に住民による保存会が設立され、今も20~80代のおよそ40人の会員が舞い続けています。今回は保存会の前会長で相談役の伊藤泰廣さんにお話を伺いました。伊藤さんは大曲浜の出身で地元で介護施設を経営されています。

伊藤さんご自身は、大街道で被災しました。介護施設でも8人、ご両親(母親)が津波の犠牲になってしまいました。大曲浜地区ではおよそ550世帯1700人のうち震災でおよそ350人の方がなくなり大きな被害が及びました。そんな中、地元の人のひとりが遺体安置所をめぐっている間に突然「獅子舞はどうするのか」と疑問を投げかけてきました。しかし当時はそれどころではなくやっと落ち着いた2011年8月頃に伊藤さん自身の会社の再建と獅子舞の存続を検討しはじめます。

大曲浜獅子舞保存会でも4人がなくなり、神社に保管していた獅子頭、笛、太鼓も流されてしまいました。しかし、復活を模索し始めたときにがれきの中から獅子頭を見つけ、やっと「また獅子舞できるな」と、なんとも言葉にならないような感じが心に湧き出したそうです。結局、見つかった獅子舞は4体。練習を再開し、2012年の正月には大曲浜伝統の獅子舞が復活しました。初めての演舞の際は地元の方々が何百人と集まって涙を流して鑑賞してくれました。

復興をアピールするために舞う、大曲浜の獅子舞は多い時で1年に40~50回かい披露されますが、大曲浜にはもう住むことができません。今は若者に代を譲り小学校などで獅子舞の魅力を伝える活動を活発化させています。門外不出、と言われていた伝統を柔軟に改めながら後世に伝統を残しています。

南三陸町サンオーレ袖浜海の家「浜の屋」高橋正人さん
古野真也アナウンサー 取材リポート

南三陸町のサンオーレ袖浜海水浴場が7月15日に7年ぶりにオープンしました。高橋さんが経営する飲食店「浜の屋」は、震災前の10月にオープンしましたが、立てたばかりのお店は震災による津波で流されてしまいました。町が様変わりしてしまって、茫然自失になっていたところに、奇跡的に「浜の屋」の看板ががれきの中から見つかりました。高橋さんはこの看板を見たときに、この先何10年も再開できないかもしれない不安を感じましたが、復興への強い気持ちを、看板を見た瞬間、奮い立たせられたそうでその後2年をかけて「浜の屋」を再生させることができたのです。

今年本格オープンした袖浜海水浴場が「復活」を遂げるまでの様子を長く見守ってきた高橋さん。がれきやコンテナに埋もれていた袖浜がみんなの協力で再生したことが強く心に響き、もう一度この袖浜海水浴場に店舗のほかに海の家「浜の屋」を出したいと思い始めます。それは高橋さんの生きがい、やりがい、心の思いに直結していました。

震災から7年を迎えて自分と人とのつながりを大切にする、そんな生き方を選んだ高橋さんは一度諦めかけた海の家「浜の屋」再建をこの夏に形にしました。自分の元気な姿を、浜の屋を通して伝えたい思いであふれています。サンオーレ袖浜海水浴場は7月15日から8月20日まで開設しています。是非元気な高橋さんの「浜の屋」を訪ねて、7年ぶりに復活した海水浴場を満喫ください。

7月10日放送

仙台市 外国人向け減災パンフレット
仙台白百合学園高校 佐々木沙菜さん
小笠原遥アナウンサー取材リポート

 仙台白百合学園高校3年生の佐々木沙菜さんは、亘理町の出身で小学校5年生のころに被災し、避難所で過ごしたことがあります。今回、外国人の減災をテーマに一冊のパンフレットを作成しました。「転ばぬ先の杖」というタイトルで作成されたパンフレットは、英訳されイラストが多めの持ち運びできるものです。
 きっかけは、震災時に外国人はどうしたんだろう?という疑問から始まりました。外国人は、日本のような島国で生活していないため防災意識が低く、言葉の壁があるのでは?と疑問があったからだそうです。実際に外国人が被災して困った、という話もありまずは日本語で作成し、苦手な英語を先生の添削、協力を得ながら英訳したそうです。
 外国人と日本人の価値観や生活の違いによって避難所で小さな揉め事もあったと聞いて、防災の意識や伝え方、避難所での過ごし方を簡単にわかりやすく、避難のイメージがすぐできるように心掛けた、と佐々木さんは話します。情報をイラストにすれば言葉の壁を越えられるという利点をポイントに「見やすさ」を意識して作られました。このパンフレットは、国際センターや東北大、南三陸さんさん商店街の総合案内所などにもおいてあるそうです。
 今後、この経験を生かして佐々木さんには大きな夢ができました。防災対策に貢献したいという強い気持ちから「データサイエンティスト」になりたいと考えています。今年11月に行われる「ぼうさい国体」で研究発表も行いたいと夢が広がりました。今後も外国人向け防災パンフレットの普及も応援していきたいですね。

仙台空襲の記録
古野真也アナウンサーリポート

1941年12月に始まった太平洋戦争。戦線が拡大し物資は配給制に、防災演習・避難演習が行われ女学生たちも軍需工場で働く人など人々の生活は日を追うごとに戦争一色になっていきました。米軍のB29爆撃弾による日本の都市空襲は1944年(昭和19年)11月の東京の市街地への空襲以降名古屋、大阪などの大都市を焼き尽くした後、各地の中小都市へ向けられました。
 1945年昭和20年、7月10日午前0時3分、仙台も空襲を受け900tを超える焼夷弾が、仙台駅西側の市街地や軍事施設のあった川内に投下され静かなたたずまいを見せていた仙台は一夜にして焼け野原となりました。
 当時の様子を、当時15歳だった川村東生さん(現在86歳)にお話しいただきました。現在の片平に住んでいたという川村さんは、自宅の防空壕から100mほど離れた広瀬川に逃れる途中、母親が乳飲み子を抱えた状態で燃えていたのが忘れられないと話してくれました。
 また、当時小学校5年生(10歳)だった佐々木あさ子さんは、仙台の戦災、復興と平和を語り継ぐ会で語り部として戦争の体験談を話していました。戦争の体験談を語る人々の年齢も高齢化しその話を聞くのもこれからはより難しくなっていきます。様々な思いで迎える7月10日、歴史を振り返る日に貴重な話を聞かせていただきました。

7月3日(月)放送

石巻市渡波 写真家 平井慶祐さん
古野真也アナウンサーリポート

石巻市で写真家として活躍する平井慶祐さんは、東日本大震災後、大阪から石巻市に移住してきました。現在は「海とともに生きる人」をテーマに水産業で働く方々を撮影しています。
ボランティアスタッフとして石巻市渡波に入ってから、海苔漁師の相沢さんという避難所の代表者と知り合い石巻に残ることを決意しました。相沢さんは津波で漁船や機械を失い、周囲の人たちから少し遅れて仕事を再開しました。準備期間は、ちょっと取り残された感もあったようですが、周囲の人達と同様に今は生き生きと仕事をされています。相沢さんをはじめ、漁師の方々が海で仕事をしている姿はとてもカッコいい、と写真家の平井さんはたくさんの写真を撮影し、その姿を多くの人たちに知ってほしいとインターネットで公開しています。
 漁師の方々は「海は悪くない、津波が悪いんだ」と口をそろえていうそうです。津波と海の違いを、地元渡波の漁師さんから教わり、「外からきたからこそみえること、果たす役割がある」と信念をもって写真を撮り続けています。震災を機に石巻に来た人が、地元の人に受け入れられていくこと、新しい縁で人の温かさと地域の魅力にふれていくことを含め、今まで見たことのなかった海の男たち、石巻渡波の魅力を、写真で表現し発表していきます。

石巻市「イシノマキフィルム」 映画製作プロジェクト
嶋脇 佑さん

 7月1日から、石巻で映画製作スクールを開講している嶋脇 佑さんは、アメリカ出身のジェフェリー・ジョーさんと一緒に映画製作プロジェクトを行っています。八戸出身の嶋脇さんは、もともと通信系の会社で機械に囲まれて人とのつながりを持たずに仕事をしていましたが、震災を機に自分の中にあった、忘れていた「人とのつながり」をドキュメンタリー映画製作を通じて、かつての自分を取り戻しているそうです。
 人と出会い、人と接することで得た経験を映画製作に生かし、「伝える」ことの大切さを実感しながら今、参加者とプロセス(過程)を共有しています。映画製作で共有した時間や人への思いに対して湧き出した人間らしい感情や思いを、みんなでシェアしながら、映画完成までの時間をも楽しんでいます。自分のありのままの姿をさらけ出して、得るものがいったいどんなものなのか、今後、映画を発表する瞬間まで参加者といっしょにじっくり楽しんでいきたいと話してくれました。発表会は7月29日、プレナミヤギホールで行われます。