5月28日(月)放送

石巻市 元門脇保育所所長 千葉幸子さん
後藤 舜アナウンサー取材リポート

石巻市門脇保育所の千葉さんは、石巻市立門脇保育所の所長でした。現在は定年を迎えて保育所勤務はしていませんが、門脇エリアで語り部として活動されています。保育所は津波に流されてしまい、今は残っていませんが震災後は定期的に毎年数回、保育所跡を見に来るそうです。
震災当時は、0歳児から5歳児数人の児童の保護者がお迎えに来れず、保護者の代わりに急遽避難場所を指定の場所から変更して逃れました。千葉さんは子ども時代にチリ地震津波を経験し、その恐ろしさを深く記憶していたため、高台へ高台へと移動したそうです。これは、避難訓練時の「先生の言うことを守り、泣かないで落ち着いて避難する」と教えていたことも役に立ちました。
現在、この経験談を踏まえ、語り部として活動していくことには意味があります。今後、保育士になる人たちに向けて、子供は可愛いだけでなく「この子たちを守る」意識を強く教えていくことも大事だと感じて語り部活動を続けています。

丸森町 ひっぽのお店ふでいち 小笠原有美香さん
林朝子アナウンサー取材リポート

丸森町のお店ふでいちは福島県との県境、宮城県丸森町筆甫(ひっぽ)地区にあります。最盛期には3000人近くいた人口も今では580人。住民の2人に1人は高齢者という「限界集落」とも呼ばれるようになってしまいました。しかし千葉県出身の女性がこの山里の暮らしを守るため、今後も地区の住民が家族のようにつながっていける場所になるようにと町おこしが始まりました。
過疎と高齢化の町ということと、震災後の原発災害の影響で人口減少があり、お店も減ってしまいました。この地区から町へ出るには車で20分もかかってしまい、ちょっと不便な地域です。そんな背景から、小笠原さんは住民の皆さんと話し合いをたくさん重ねて、地域商店「ひっぽのお店ふでいち」お店をオープンさせました。
小笠原さんは、千葉県の出身で「養蚕の町、丸森町」に興味があり、10年前の大学生時代にはホームステイをして養蚕のお手伝いをしたこともありました。ホームステイ時期は、玄関先に野菜が置いてあったり、掃除を手伝ってくれたりとその人の温かさに触れ、感動したそうです。
震災のあと、丸森町で震災復興員を募集していたこともあり、2013年に恩返しの意味も込めて移住を決めました、そして震災から7年、今年の5月20日に筆甫地区にお店をオープンすることになりました。
丸森町の限界集落、筆甫地区に新しい笑顔溢れるお店があります。優しく穏やかな時間が流れていますので、みなさんもぜひ、近くに来た際は立ち寄りください。

5月21日(月)放送

亘理町 亘理アセロラ園 伊藤正雄さん
佐々木淳吾アナウンサー取材リポート

宮城県内で唯一亘理町で栽培されている「亘理アセロラ園」は、震災後津波の被害を受けましたが現在も同じ場所で栽培されています。順調であれば、今のこの季節に収穫ができるそうです。寒い場所での栽培には向いていなく、沖縄など温かい場所が栽培の主流となっています。
アセロラとの出会いは1994年、たまたま親戚の方がブラジルへ行くことになり、「何か良いものがあったら見つけてきて欲しい!」というリクエストをしたところブラジルからアセロラの苗が10本来たそうです。最初の苗はすべて枯れてしまったのですが、反省点を活かし、1995年再度ブラジルから持ち込み、その後苗が根付きました。しかし2011年に東日本大震災でハウスが壊滅、泥にかぶったアセロラハウスは赤旗を立てて「処分」の意思を表していました。
しかし、アセロラの苗は強い生命力で2ヵ月後の5月中旬、新芽が出てきた場所を発見しました。アセロラの生きようとする力は伊藤さんの心を大きく動かし、伊藤さんはヘドロとガレキを除く作業に取り掛かり、奇蹟的に助かった芽を育てていきました。現在は震災を乗り越えて栽培、加工品販売と実績を作りアセロラの経営を柱と据えたそうです。


山元町 思い出サルベージ 溝口佑繭さん 新藤祐一さん
林田悟志アナウンサー取材リポート

思い出サルベージとは、山元町で津波に流され持ち主不明となった写真およそ80万枚を洗ってデジタル化して、元の持ち主にお返しする活動で2011年4月末から始まっています。溝口さんは震災当時大学院生で、パソコンやインターネットの研究をしていていて、先輩から「山元町という場所で情報発信が足りていないので、何かできないか探しに行こう」と誘われて山元町に入ったのがきっかけでした。
実際にがれきの中から見つかった写真もあれば、ネガの状態で流されて現像したもの、卒業アルバム、賞状などがありました。これらは震災直後に自衛隊や消防団の人があつめたものを体育館で展示していたものもあります。現在は、「思い出サルベージ」で6割程度の44万枚を持ち主へお返しすることができました。
出張返却会が行われた4月30日、震災から7年経っても探しに来る方がいらっしゃいました。スタッフの一人新藤さんは「絶対持ち主に返却し、返却できる体制をずっと整えていかなければならない」と強く思ったそうです。返却会場は明るく、写真をさがしに来た方々の嬉しそうな様子を見ていると、この活動はまだまだあと3年、10年後の2021年までは継続して行いたいな、と思ったそうです。残りの写真の在庫がなくなるまで(ゼロは難しいと思いますが)、できる限り続けていきたいと思いを語ってくれました。

5月14日(月)放送

松島町でタケノコ  丹野隆子さん
佐々木淳吾アナウンサー取材リポート

タケノコの季節です。宮城県でタケノコと言えば丸森町を思い出す方も多いと思いますが、ここ松島町でもタケノコの収穫ができるのです。「松島町でタケノコ」というと地元の方も驚く、ということです。丹野さんは震災前に牡蠣の養殖や稲作中心の農業「半農半漁」を行っていましたが、稲作に塩水、津波で養殖の牡蠣を全部流されてしまい、当時勤めていた仕事を早期退職し、3年前からタケノコの収穫を行っています。
名籠という小さな漁港に家があった丹野さん。自宅は目の前にありましたが、辛うじて津波が防潮堤を超えることはありませんでした。17軒あった牡蠣養殖業者は3軒に減少、震災後丹野さんも牡蠣の養殖を諦めて今はタケノコ収穫、収穫したものを水煮に加工する「たけのこ工房 吉左衛門」を立ち上げました。
この加工場は、宮城県地域活性化モデル事業に応募して支援を受け、さらにクラウドファンディングで支援を募り事業費を集めることに成功しました。また松島町の緊急雇用対策事業「里山の再生」も活用し、町民のみなさんと仕事を進めることができました。2年目はタケノコが不作で赤字になってしまったそうですが、松島町が「海の街」だけでない「里山の魅力の街」として前進しています。丹野さんのタケノコの水煮は根回地区の「ねまわりの野菜畑」で購入することができます。是非ご賞味ください。


「岩沼みんなの家」菅原真季さん
小笠原遥アナウンサー取材リポート

岩沼市恵み野のある「岩沼みんなの家」は、岩沼市の農業復興を支援するために作られたコミュニティで、2013年にカフェの運営がスタートとなりました。2015年からは「岩沼復興アグリツーリズム」という活動に変化し、大阪や東京からなど全国からの参加者が”植樹して収穫をする”アグリツーリズムを実施しています。
菅原さんは仙台市の出身、震災を仙台の自宅で経験してから「いつかは地元で役に立ちたい」という気持ちを持って過ごしていたそうです。東京で就職してからも気持ちが強くかわらず、その後Uターン就職で岩沼市に戻りました。特に活動の中の「商品企画」に携わることは長年の夢だったそうで、この仕事ができるという利用が決め手となり「岩沼みんなの家」での活動を決めました。

現在岩沼の農業は、生産地が「岩沼」であることがうまくアピールできていないのが課題だと話す菅原さん。塩害による被害を乗り越えたこの岩沼の地で、美味しい野菜がつくられていることが知られていない現状が「悔しい」と話してくれました。
今後も地域の農家さんが育てた野菜をもっともっと魅力あるものだと伝えていきたいと思っています。自治体との連携企画「そばのジェラート」は、菅沼さんの企画した商品で、開発から販売まで携わりました。この商品をきっかけに「とにかく岩沼に来てほしい」と願っています。

5月7日(月)放送

東松島市 馬耕体験課外授業
林田悟志アナウンサー 取材リポート

東松島市宮野森小学校5年生26人が参加した地元の農業法人主催の「馬耕体験課外授業」は4月16日の強風の中開催されました。子どもたちは普段見ない光景に目をキラキラ輝かせ、時折歓声を上げながら課外授業を受けていました。馬を利用した農耕体験は今年で3年目。昔ながらの自然と共生した農業の原点である「馬」を利用した農業の作業体験は、「農業とは何か」を子どもたちに理解してもらう良い機会になっています。
東松島市の農業は震災で大きなダメージを受けた地域ですが、この地域を愛してもらうために主催した主催者の安部さんは、子どもたちにこれからの農業の担い手、そして地元東松島市の地域づくりのリーダーが育つことを願い、この馬耕体験を継続しています。機械に頼らず馬の力を借りて種まきにも挑戦しました。地元「のびる米」は地元のブランド米です、秋の収穫が今から楽しみですね。

名取市 福島県浪江町から移り住んだ大内善一さん
林 朝子アナウンサー取材リポート

現在、名取市にお住いの大内さんは、震災時福島県浪江町で被災しました。震災後は原発事故の影響で戻れず避難生活が続き、福島県の浪江町から宮城県名取市の美田園に移り住みました。その後浪江町の避難指示は解除されたものの、故郷に戻った住民は、1万8000人近い町民のうち700人余りだということです。
そんな大内さんは、昭和63年から浪江町で続けてきた接骨院を名取で再スタートさせることになりました。今から30年前の開業日と同じ日、今年6月14日に再開です。大内さんご夫妻は今のところ戻る予定は無いものの、今後故郷に戻り暮らす人々の心や体のケアにも赴く予定だといいます。

4月23日(月)放送

東北学院大学災害ボランティアステーション 
林田悟志アナウンサー取材リポート

東北学院大学災害ボランティアステーションとは、全国の大学をつなぐ支援の中継機関で宮城県の地域の情報を集約したり共有したりして、支援を必要とする人たちとボランティアを行う人々をつなぐ役割を持っている組織です。全国127大学の中心・拠点となっていて、被災地へ赴きボランティアを行います。
スタッフは震災当時、宮城県に住んでいた学生そうではいない学生たちで形成され、それぞれの東日本大震災に対する思いが強い生徒たちが多く集まっています。親族をなくした学生、被害はなかったけれど自分の生まれ育った町がなくなってしまった、とにかく被災地で何か助けになることを行いたい…など様々な境遇がボランティアステーションに所属するきっかけになっています。ボランティアで入る被災地は毎日が後片付けや仕事復帰への第一歩となる現場で、誰かが手助けをしないと前進が困難な状況が殆どだった、と振り返る学生たちは「調べるだけでなく、現場で実際に肌で感じないといけない」と強く思ったといいます。
活動を通して現地に足を運ぶことの重要さを感じ、それ以上に伝えていくという重要な役割もあると

石巻市 石巻復興きずな新聞 編集長 岩元暁子 さん
林 朝子アナウンサー取材リポート

横浜市出身の編集長、岩元さんはマイクロソフト社に勤務した経歴を持つ女性で、地域貢献を強く行いたいという思いをもって現在石巻市に住んでいます。震災直後、すぐ石巻にボランティアで入り、1週間の滞在予定が気が付けば7年という月日が経過していました。ボランティアに訪れる“世話役”として活動していましたが、地元の方々とつながっていくことにより離れにくくそして新しい問題が次々と出てきたこと(仮設住宅の閉鎖や移転先でのコミュニティづくりや、災害公営住宅への移転の相談など)が、7年という長い年月に繋がっているということです。
その後、全く経験したことのなかった「新聞の編集長」という役割を担うことになり、きずな新聞の発行・編集をすることになります。震災7年、取材を通して見えてくる課題や人々の声に応えたいという思いも強くなりました。新しい生活を災害公営住宅ではじめた方々の悩みから見える課題も「石巻復興きずな新聞」で見えるでしょう。
新聞は、HP上ですべて見ることができます。岩元さんの「編集長のつぶやき」から現在被災地で起きていることが垣間見えます。興味がある方はぜひご覧ください、新聞配布や記者ボランティアも募集中です。支援協力も随時募集中です。