Archive for 番組

6月25日(月)放送

石巻市北上町 イシノマキファーム 高坂岳詩 さん
大久保 悠アナウンサー 取材リポート

農業を通して地域、社会、自然とつながるをテーマに自然療法と有機農法の手法を取り入れながら、イシノマキファームの高坂岳詩さんは様々な農作物を生産しています。同時に若者の就労支援なども目的に活動されています。
震災当時は、東京でIT関連の仕事をしていてビルの大きな揺れに驚きました。地震のあとはシステム系の仕事であるため、2,3日は復旧作業に追われたということです。
東北での震災ボランティアをすることで、これをきっかけに「30歳を機に、東北で仕事を」と思うようになった高坂さんは、1年間限定のNPO法人の仕事に出会います。内容は石巻市の不登校児や引きこもりの子供たちに就労支援する仕事で、期間限定の仕事であったため就労するのをためらい迷いましたが、意を決して東京から石巻に引っ越してきました。
そして「心の復興事業」、仕事の一環であった畑仕事を通じて仮設住宅の方々にも元気になってもらおうと始めたのが「イシノマキ・ファーム」です。
ソーシャルファームという考え方で、地域の課題をビジネスという手法で解決し、利益で不調を抱えた若者が、何とか就労できるように訓練をする場所を提供する、というモデルを確立していきます。
今後も、高坂さんは地元のおじいちゃんおばあちゃんと若者が農業を通じてコミュニケーションを保ち、その手助けをしていきたいと話してくれました。

東北大学災害科国際研究所 遠田晋次教授
根本宜彦アナウンサー取材リポート

【直下型地震について】

直下型地震は、めったにこない揺れではありますが、直下型地震で浅い場所で揺れる場合、M6以下でも、最大震度6弱になったりします。
また、揺れの長さも熊本地震はわずか10数秒、311東日本大震災は3分弱。揺れが激しい、長いなどで被害が大きく変化します。
宮城県内では利府・長町活断層(仙台平野の西の活断層帯で仙台市を経て村田町まで)や、未知の活断層が多く、全体的にはまだまだ調査が必要です。
2-3000年毎に大きな地震の周期があり、活断層も数千年規模で動くそうです。私たちは、突然の大きな揺れが特徴の「直下型地震」に備え、命を守るために、耐震性のある建物にいること、安全な場所に移動すること、テレビなど大きなものが自分自身に落ちてこないことなどを日ごろからチェックすることが大切です。
万が一の際には、自分自身の場所を知らせるホイッスルなどを準備したり、割れ物が入っている棚のストッパーなど準備したり今一度点検してみましょう。

6月18日(月)放送

※大阪でおきたM6.1 震度6弱 の地震情報をお伝えします。

東北大学災害科学国際研究所 遠田晋次教授 地震解説
根本宜彦アナウンサー取材リポート

大阪での地震は、普通は大きな地震がないというイメージです。
神戸の地震から23年経過していますが、この地震で日本中どこでも直下型の大地震が起きる、という注意喚起になったということです。周辺に活断層が集中している、浅い部分で起きた大阪の直下型地震は、23年前の神戸の地震エネルギーにしたら150分の1くらいということです。
高槻市の震源付近には、大阪府内を南北に走る活断層や兵庫県から大阪府へ東西に走る断層帯が集まっています。地震を引き起こした断層は、大阪の市街地を真っ二つにするような断層ですが、今回は断層の交差部分が震源となりました。ちょっと時間をおいて大きい地震が起きるという事例がこれまで何度もありますので、今後も注意が必要です。
「今回の地震が南海トラフへ影響しますか」という質問についてですが、ほとんどは影響がないと思われます。ただし、南海トラフ沿いの巨大地震が起きる前に、西日本の内陸での直下型地震がふえる、という説は以前からあります。今後も未知の断層、宮城県でも起き得る直下型地震、他人事と思わず、しっかり備えて注意していきましょう。

七ヶ浜高洋中学校 Fプロジェクト 渡辺遥南さん(1年生)
古野真也アナウンサー 取材リポート

七ヶ浜高洋中学校 Fプロジェクトの新1年生の渡辺さんが初めて語り部に挑戦しました。
およそ100人の新1年生を前に、Fプロジェクト6名が総合学習、活動風景の写真を使いながら自分たちの活動の内容を伝えます。緊張しているようなメンバーでしたが、しっかり自分たちの思いを伝えます。
「努力して生きようとした人たちが津波にのまれ命を失ってしまった。生きているのが当たり前と思わないで、今を大切に生きてください。」とゆっくり丁寧に、自分の気持ちを話した渡辺さん。記憶がギリギリある中学生の、今できる、中学生ならではの語り部活動をもっともっとしってもらい、後輩たちにもこの活動に興味を持ってほしいと願っています。
活動を聴いた七ヶ浜高洋中学校の1年生は「震災時のことを思い出すので最初は聞きたくないな」と思った子供たちもいます。しかし、震災の時の想い出と感情に向き合って語り継ぐことが大事であり、渡辺さんが強く思う「これからも次の世代に伝えていく」という思いが途絶えることなく続くことを願いたいと思います。

 

6月11日(月)放送

きょう放送の3.11みやぎホットラインは、今月12日で宮城県沖地震から40年、14日で岩手・宮城内陸地震から10年、長年取材を続けている根本宣彦アナウンサーの取材リポートをお送りします。
栗原市耕英地区、花山地区のみなさんがいま、どのような思いでのいらっしゃるのか、たくさんの声を交えてお伝えします。

5月28日(月)放送

石巻市 元門脇保育所所長 千葉幸子さん
後藤 舜アナウンサー取材リポート

石巻市門脇保育所の千葉さんは、石巻市立門脇保育所の所長でした。現在は定年を迎えて保育所勤務はしていませんが、門脇エリアで語り部として活動されています。保育所は津波に流されてしまい、今は残っていませんが震災後は定期的に毎年数回、保育所跡を見に来るそうです。
震災当時は、0歳児から5歳児数人の児童の保護者がお迎えに来れず、保護者の代わりに急遽避難場所を指定の場所から変更して逃れました。千葉さんは子ども時代にチリ地震津波を経験し、その恐ろしさを深く記憶していたため、高台へ高台へと移動したそうです。これは、避難訓練時の「先生の言うことを守り、泣かないで落ち着いて避難する」と教えていたことも役に立ちました。
現在、この経験談を踏まえ、語り部として活動していくことには意味があります。今後、保育士になる人たちに向けて、子供は可愛いだけでなく「この子たちを守る」意識を強く教えていくことも大事だと感じて語り部活動を続けています。

丸森町 ひっぽのお店ふでいち 小笠原有美香さん
林朝子アナウンサー取材リポート

丸森町のお店ふでいちは福島県との県境、宮城県丸森町筆甫(ひっぽ)地区にあります。最盛期には3000人近くいた人口も今では580人。住民の2人に1人は高齢者という「限界集落」とも呼ばれるようになってしまいました。しかし千葉県出身の女性がこの山里の暮らしを守るため、今後も地区の住民が家族のようにつながっていける場所になるようにと町おこしが始まりました。
過疎と高齢化の町ということと、震災後の原発災害の影響で人口減少があり、お店も減ってしまいました。この地区から町へ出るには車で20分もかかってしまい、ちょっと不便な地域です。そんな背景から、小笠原さんは住民の皆さんと話し合いをたくさん重ねて、地域商店「ひっぽのお店ふでいち」お店をオープンさせました。
小笠原さんは、千葉県の出身で「養蚕の町、丸森町」に興味があり、10年前の大学生時代にはホームステイをして養蚕のお手伝いをしたこともありました。ホームステイ時期は、玄関先に野菜が置いてあったり、掃除を手伝ってくれたりとその人の温かさに触れ、感動したそうです。
震災のあと、丸森町で震災復興員を募集していたこともあり、2013年に恩返しの意味も込めて移住を決めました、そして震災から7年、今年の5月20日に筆甫地区にお店をオープンすることになりました。
丸森町の限界集落、筆甫地区に新しい笑顔溢れるお店があります。優しく穏やかな時間が流れていますので、みなさんもぜひ、近くに来た際は立ち寄りください。

5月21日(月)放送

亘理町 亘理アセロラ園 伊藤正雄さん
佐々木淳吾アナウンサー取材リポート

宮城県内で唯一亘理町で栽培されている「亘理アセロラ園」は、震災後津波の被害を受けましたが現在も同じ場所で栽培されています。順調であれば、今のこの季節に収穫ができるそうです。寒い場所での栽培には向いていなく、沖縄など温かい場所が栽培の主流となっています。
アセロラとの出会いは1994年、たまたま親戚の方がブラジルへ行くことになり、「何か良いものがあったら見つけてきて欲しい!」というリクエストをしたところブラジルからアセロラの苗が10本来たそうです。最初の苗はすべて枯れてしまったのですが、反省点を活かし、1995年再度ブラジルから持ち込み、その後苗が根付きました。しかし2011年に東日本大震災でハウスが壊滅、泥にかぶったアセロラハウスは赤旗を立てて「処分」の意思を表していました。
しかし、アセロラの苗は強い生命力で2ヵ月後の5月中旬、新芽が出てきた場所を発見しました。アセロラの生きようとする力は伊藤さんの心を大きく動かし、伊藤さんはヘドロとガレキを除く作業に取り掛かり、奇蹟的に助かった芽を育てていきました。現在は震災を乗り越えて栽培、加工品販売と実績を作りアセロラの経営を柱と据えたそうです。


山元町 思い出サルベージ 溝口佑繭さん 新藤祐一さん
林田悟志アナウンサー取材リポート

思い出サルベージとは、山元町で津波に流され持ち主不明となった写真およそ80万枚を洗ってデジタル化して、元の持ち主にお返しする活動で2011年4月末から始まっています。溝口さんは震災当時大学院生で、パソコンやインターネットの研究をしていていて、先輩から「山元町という場所で情報発信が足りていないので、何かできないか探しに行こう」と誘われて山元町に入ったのがきっかけでした。
実際にがれきの中から見つかった写真もあれば、ネガの状態で流されて現像したもの、卒業アルバム、賞状などがありました。これらは震災直後に自衛隊や消防団の人があつめたものを体育館で展示していたものもあります。現在は、「思い出サルベージ」で6割程度の44万枚を持ち主へお返しすることができました。
出張返却会が行われた4月30日、震災から7年経っても探しに来る方がいらっしゃいました。スタッフの一人新藤さんは「絶対持ち主に返却し、返却できる体制をずっと整えていかなければならない」と強く思ったそうです。返却会場は明るく、写真をさがしに来た方々の嬉しそうな様子を見ていると、この活動はまだまだあと3年、10年後の2021年までは継続して行いたいな、と思ったそうです。残りの写真の在庫がなくなるまで(ゼロは難しいと思いますが)、できる限り続けていきたいと思いを語ってくれました。