7月10日放送

仙台市 外国人向け減災パンフレット
仙台白百合学園高校 佐々木沙菜さん
小笠原遥アナウンサー取材リポート

 仙台白百合学園高校3年生の佐々木沙菜さんは、亘理町の出身で小学校5年生のころに被災し、避難所で過ごしたことがあります。今回、外国人の減災をテーマに一冊のパンフレットを作成しました。「転ばぬ先の杖」というタイトルで作成されたパンフレットは、英訳されイラストが多めの持ち運びできるものです。
 きっかけは、震災時に外国人はどうしたんだろう?という疑問から始まりました。外国人は、日本のような島国で生活していないため防災意識が低く、言葉の壁があるのでは?と疑問があったからだそうです。実際に外国人が被災して困った、という話もありまずは日本語で作成し、苦手な英語を先生の添削、協力を得ながら英訳したそうです。
 外国人と日本人の価値観や生活の違いによって避難所で小さな揉め事もあったと聞いて、防災の意識や伝え方、避難所での過ごし方を簡単にわかりやすく、避難のイメージがすぐできるように心掛けた、と佐々木さんは話します。情報をイラストにすれば言葉の壁を越えられるという利点をポイントに「見やすさ」を意識して作られました。このパンフレットは、国際センターや東北大、南三陸さんさん商店街の総合案内所などにもおいてあるそうです。
 今後、この経験を生かして佐々木さんには大きな夢ができました。防災対策に貢献したいという強い気持ちから「データサイエンティスト」になりたいと考えています。今年11月に行われる「ぼうさい国体」で研究発表も行いたいと夢が広がりました。今後も外国人向け防災パンフレットの普及も応援していきたいですね。

仙台空襲の記録
古野真也アナウンサーリポート

1941年12月に始まった太平洋戦争。戦線が拡大し物資は配給制に、防災演習・避難演習が行われ女学生たちも軍需工場で働く人など人々の生活は日を追うごとに戦争一色になっていきました。米軍のB29爆撃弾による日本の都市空襲は1944年(昭和19年)11月の東京の市街地への空襲以降名古屋、大阪などの大都市を焼き尽くした後、各地の中小都市へ向けられました。
 1945年昭和20年、7月10日午前0時3分、仙台も空襲を受け900tを超える焼夷弾が、仙台駅西側の市街地や軍事施設のあった川内に投下され静かなたたずまいを見せていた仙台は一夜にして焼け野原となりました。
 当時の様子を、当時15歳だった川村東生さん(現在86歳)にお話しいただきました。現在の片平に住んでいたという川村さんは、自宅の防空壕から100mほど離れた広瀬川に逃れる途中、母親が乳飲み子を抱えた状態で燃えていたのが忘れられないと話してくれました。
 また、当時小学校5年生(10歳)だった佐々木あさ子さんは、仙台の戦災、復興と平和を語り継ぐ会で語り部として戦争の体験談を話していました。戦争の体験談を語る人々の年齢も高齢化しその話を聞くのもこれからはより難しくなっていきます。様々な思いで迎える7月10日、歴史を振り返る日に貴重な話を聞かせていただきました。

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