7月31日(月)放送分

尚絅学院大学TASKI 
坂寄直希アナウンサー 取材リポート

尚絅学院大学のボランティアチームTASKI(たすき)は東日本大震災発生の翌年2012年に発足し、名取市閖上地区を中心にボランティアを行っている。
団体名TASKIには、T(共に)A(歩む)SK(尚絅学院大の尚絅)I(愛)。また、駅伝で人と人をつなぐ「たすき」の意味も込められている。
現在44人が所属し、震災の被害を受けた閖上地区などの住民との交流・取材をSNSなどで発信、県内外の大学と交流して同世代の人たちに震災の教訓を伝えるほか、今後の災害への備え防災に力を入れた発信を行っている。
活動を通して感じたことに「伝承活動は防災に繋がる」ことがあげられた。実際、「閖上には津波は来ない」という言い伝えが地元で語り継がれていたそう。しかし、1933年に閖上に津波が来たことを記録した石碑が震災以前は日和山にあった。(現在は閖上のメモリアル公園に移動された)津波が来たことが伝承されず、「閖上には津波は来ない」という間違った認識が伝承されたために東日本大震災で多くの犠牲者がでたのではないかとメンバーは話す。また、このことから正確な伝承を続けていくことで防災に繋がるのではないかと語る。
TASKIのこれまでの経験から、ボランティアはどのように活動すればいいのか多くの被災者に長年にわたって聞いた話をもとに作成したのが「災害復興支援はじめの一歩」。ボランティアに対する心構えなどが書かれているマニュアルブックだ。TASKIのSNSなどから見ることができる。

7月24日(月)放送分

東北大学災害科学国際研究所 教授 遠田晋次さん
東北学院大学 地域総合学部 政策デザイン学科 准教授 定池祐季さん
根本宣彦アナウンサー 取材リポート

1993年7月12日、北海道南西沖を震源とするM7.8の地震が発生し、北海道・小樽や江差などでは当時の震度階級で5を観測した。奥尻島には地震発生後数分で、高さ最大およそ30mの津波が到達した。日本海側で大きな地震が起こると、数分で津波が来てしまう。地震発生後5分後の大津波警報が間に合わなかった教訓から、気象庁は1999年4月、地震発生から3分を目安に津波警報を発表できるよう迅速化している。遠田教授は日本海側で起きる地震の特徴の一つとして液状化も挙げる。
さて、東北学院大学・地域総合学部・政策デザイン学科・准教授の定池祐季さんは中学2年生のときに奥尻島で北海道南西沖地震を経験した。すぐに家族で車で地域の中で一番高い高台に避難。住民の方が無事に避難できたのは、地震=津波だと思いついた人が多かったこと、それを教えてくれた人がいたことがきっかけだったと定池さんは話す。その後1995年の阪神・淡路大震災を機に南西沖地震について考えることが増え、北海道大学に進学し、災害について研究するきっかけになった。地震の被災の経験を活かしたいと今年4月からは東北学院大学で教鞭を執っている。若い世代に災害を知ってもらいたい、普段身の回りで困っている人たちに目を向けてもらいたいと語る。今年、津波防災計画協議会の会長となった定池さんは、奥尻での震災の人々の経験、北海道胆振東部地震での厚真町の人々の歩みのほか、北海道の災害についてもまとめたいと話している。

7月10日(月)放送分

一般社団法人 宮城キッチンカー協会 会長・佐藤幸弘さん
玉置佑規アナウンサー 取材リポート

新型コロナウイルスの影響で、よく見かけるようになったキッチンカー。一般社団法人宮城キッチンカー協会の会長、佐藤幸弘さんにインタビュー。宮城キッチンカー協会では、キッチンカー出店の紹介をし、売り上げの一部を協会に協力金として納めてもらい、そのお金で災害時に炊き出しを行っている。佐藤さんは東日本大震災発生時、地元である柴田町にいた。震災後に、閖上の方から避難所では冷たいものしか食べられなかったという話を聞いた佐藤さん。自分で何かをやろうと思い、茨城の豪雨災害で炊き出しを行ったが、一人でやることに限界を感じた。同業者の仲間とやればできるのでは思い、2017年にキッチンカー協会を立ち上げ、2年で加盟社を40社まで増やした。2019年の台風19号の際には、丸森町でキッチンカー2台で炊き出しを3日間行った。被災地で温かさを感じ、ウィンウィンだったと話す一方で、課題も見つかった。被災者が集まる公共施設で行う炊き出しは行政の許可が必要であり、SNSで情報を得られない人たちがどこでどのような炊き出しをしているかを伝えられなかった。そして佐藤さんたちの熱い思いが届き、賛同した自治体と避難所にキッチンカーが入ることができる協定を結ぶことができた。今後は全国に向けて横の連携を進めていくそう。佐藤さんは、いざという時に地域から頼ってもらえるよう、日頃から地域の人たちとの繋がりを大切にし、「毎日を災害が発生する前の日」という意識で活動を続けていきたいと話す。

太白区秋保町 音吉屋ふえ工房 音吉さん
鈴木美希ディレクター 取材リポート

仙台すずめ踊りでなじみが深い篠笛。篠竹に息を吹き込む孔と指孔をあけたシンプルな構造の横笛。篠笛を作り始めて50年を迎える音吉さんは、秋保に「音吉屋ふえ工房」を構えている。篠笛には、地域に伝わる独特な音色を持つ古典調、そして西洋楽器ともあうようにドレミの音階に調律されているドレミ調がある。古典調は郷土芸能に使われており、指孔の数も7つ、6つ、4つ、2つと地域によって異なる。音吉さんが篠笛を作り始めてから長らくドレミ調を一心に作り続けた。東日本大震災が音吉さんに転機をもたらした。生きている人たちの気持ちを奮い立たせるため、亡くなった人たちへの思いを込め、新盆にお祭りしたいと、古典調の篠笛の依頼が来たのだ。残っていた動画や話を聞きながら、模索して古典調の篠笛を作り始めた音吉さん。その後、各地からの古典調の製作依頼が来るようになった。現在、秋保を篠笛が聞こえる郷にしたいと、月に一度、秋保・里センターで「しの笛たいむ」というイベントを開催している。前半30分は篠笛の吹き手によるコンサート、後半30分は篠笛を吹く体験会を実施。次回は15日(土)午後1時を予定。

7月3日(月)放送分

SAY’S東松島 代表・山縣嘉恵さん
大久保悠アナウンサー 取材リポート

市民活動グループ「SAY’S東松島」では、地震・津波をテーマにした「もし地震が起こったらね」という伝承の歌をワークショップで紹介したり、語り部活動をしている。今回は代表の山縣嘉恵さんにお話をうかがった。
山縣さんは仙台の出身で、結婚を機に旧鳴瀬町に移住。東日本大震災発生時は野蒜の自宅にいた。小学生の息子を避難場所の地区センターに置いて、義理の母を迎えに帰宅。義母と地区センターに向かい、息子と一緒に野蒜小学校に避難。体育館がいっぱいだったため、校舎の3階に避難した。
被災経験から「反省から学ぶ防災」を自ら勉強しながら伝えていこうと思い立った山縣さん。「女性防災リーダー養成講座」を受講し、防災士の資格も取得。JICA支援の東松島みらい機構HOPEが実施する、東松島とインドネシアのバンダ・アチェ市の相互復興の取り組みに派遣され、1週間渡航。現地で「もし地震が起こったらね」の震災伝承の歌に出会った。インドネシアで聞いた歌の歌詞には、安政5年(1854)の安政南海地震による津波が現・和歌山県広川町を襲った際、稲むらに火をつけ、津波から逃げ遅れた村人を高台へ導いて多くの命を救った逸話「稲むらの火」の故事にもなった濱口梧陵のことが盛り込まれていた。山縣さんはインドネシアの直訳してもらった歌詞にアレンジを加えて歌を完成させた。コロナ前には、まちびらきのお祭りで歌を披露していた。現在はワークショップの中のプログラムで紙芝居と合わせてSAY’S東松島のメンバー5人で弾き語りして「楽しみながら防災を日頃から意識してもらおう」と活動している。今後も東松島市野蒜の市震災復興伝承館での公開語り部を開催するほか、ワークショップなどを通して市民同士を繋げ、経験を次に繋げる活動をしていく予定。
歌「もし地震が起こったらね」は地元のデザイナーさんが手がける地元の情報が掲載されたウェブサイト「MOOKS」で聞くことができる。
保育園のいす取りゲームの際の歌など取り入れてほしい、お守り替わりにこの歌を知っておいてもらい、いざという時に思い出して避難行動に繋げてほしいと山縣さんは話す。

6月19日(月)放送分

栗原市栗駒 「駒の湯温泉」菅原恵美さん
東北大学災害科学国際研究所 遠田晋次教授
栗原市花山村 早坂絹子さん
元くりこま耕英震災復興の会 会長 大場浩徳さん

2008年6月14日に発生した「岩手・宮城内陸地震」から15年。M7.2の地震が発生し、栗原市、岩手県奥州市で震度6強、大崎市で6弱、仙台市でも5強を観測した。17人が亡くなり、6人が行方不明になった。特に荒砥沢ダム周辺で大規模な地滑りは、移動した土砂の量が7000万立法メートルに達し、東京ドーム56杯分に相当する国内最大級の地滑りとなった。
東北大学災害科学国際研究所の遠田晋次教授によると、栗駒火山周辺には以前大きな活断層はなく、ノーマークの地域での地震だったとのこと。山の方で起こる直下型地震だったため、斜面の崩壊箇所は4000以上、それによって川を塞ぐ河道閉塞が発生。すると天然のダムができ、決壊しないように作業が必要となった。
栗原市は2015年に、貴重な自然遺産が残る公園「ジオパーク」としての認定を受けた。
被災地のひとつ、栗原市花山地区では土砂崩れが相次いで発生。2001年に当時の花山村浅布地区に移り住んだ主婦の早坂絹子さんは、地肌が見えている山々を見ると地震が蘇って気持ちが落ち着かないと話す。現在、高齢化が進んでいることを課題にあげ、コミュニティを大切にしていきたいと語った。
一方、栗駒山の中腹にある栗原市耕英地区は市街地に通じる道の路面が崩壊し、大きな土砂崩れで通行できずに孤立状態に。生業であるイワナの養殖や農業、観光などに大きな爪痕を残した。元くりこま耕英震災復興の会・会長の大場浩徳さんはイチゴの栽培をしていたが、避難を余儀なくされ、2年間農作業ができなかった。内陸地震以前は、イチゴの露地栽培をしている農家は7軒あったが、現在は大場さんのみ。
そして耕英地区では秋にイワナ祭りを開催していた。今年は久しぶりに観光施設「山脈ハウス」の前で小さく、イワナ祭りを行いたいと話す。