Archive for 番組

11月9日(月)放送分

仙台市
仙台市立八幡小学校 小石俊聡校長先生
大久保悠アナウンサー 取材リポート

作文宮城とは、宮城県内の小学生を対象に、自由なテーマで作文を書いてもらい、その中から入選作品を載せ毎年発行しているもので、今年で69年目を迎えます。現在県の国語研究部会長として、作文宮城の編集長を務めている仙台市立八幡小学校の小石俊聡校長に、作文宮城への想いを伺いました。
最初は読み物としての要素が大きかった作文宮城ですが、作文には「自分との対話」ができる魅力があるといいます。
東日本大震災の翌年には、子供たちが震災の体験をつづった作文宮城の特別編「あの日のこどもたち」が発刊しました。東日本大震災から10年を迎えようとする中での新型コロナウイルスの感染拡大。小石先生は今だからこそ、今度は新型コロナを受けての子供たちの想いをつづってみることが大切なのではと考えます。休校が続く中で子供たちの考えを掴めなかったからこそ、新型コロナに関する作文はとても貴重だということです。
大きな出来事に対する考えや、子供たちが日々考えていること、当時の子供たちの声を共有し、残していくことが大切だと改めて感じました。子供たちがその時感じたことが記録として残ることで、それは次の世代の子供たちの財産にもなると思います。言葉は消えてしまうものなので、文字にして残すことでより大切にしていきたいです。

11月2日(月)放送分

石巻市鮎川浜
黄金寿司2代目 古内勝治さん・勝徳さんへのインタビュー
藤沢 智子アナウンサー 取材リポート

去年10月にオープンした「ホエールタウンおしか」に仮設商店街から移転し本設営業を始め、親子二人三脚で牡鹿の美味しいものを提供している黄金寿司のこれまでの歩みを取材しました。
黄金寿司を始めた初代、古内勝治さんによると、創業のきっかけは昭和46年のコバルトライン開通だったといいます。多くの観光客に向け、勤めていた郵便局を辞めて、黄金寿司を始めました。
海岸のすぐそばにあった店舗や自宅は東日本大震災ですべて流れてしまいました。避難所から見た景色は忘れられないといいます。3か月ほど避難所で暮らした後は、復興住宅へ移り、自治会も結成しました。黄金寿司に関しては店舗も道具もなく、一時はやる気をなくしていましたが、2011年11月18日の仮設商店街「おしかのれん街」のオープンと共に、仮設店舗での営業を再開します。包丁などの道具は仲間が持ってきてくれたものを工夫して使い、8年もの期間、仮設店舗で営業を続けました。なじみのお客さんのことを思うと、地元を離れ、新しい土地でお店をやることは考えられなかったといいます。
お昼の営業のみを行っている現在では、毎日大勢のお客さんで賑わいます。来てくれたお客さんは必ず美味しものを食べさせて返すんだ、という意気込みをもって日々営業されている古内さん親子。生の鯨を自信をもって提供することにやりがいを感じるとともに、これからもさらに頑張っていかなければいけない、と感じているようです。
鯨の町でご商売を続けてきた古内さん親子の鯨への愛が感じられました。これからも親子二人で力を合わせて、鯨の美味しさを守り抜いてもらいたいと思います。

10月26日(月)放送分


石巻市北上町
WE ARE ONE北上 コミュニティナース
藤沢 智子アナウンサー 取材リポート

以前もこの番組内でご紹介した、石巻市の北上地区で地域再生のために住民の女性を中心に活動している「WE ARE ONE北上」という団体が取り組む「コミュニティナース」の活動について取材しました。
「コミュニティナース」とは、医療機関や訪問看護に従事する看護師とは違い、地域の中で住民と交流し寄り添いながら、その専門性や知識を生かして活動するナース、医療人材です。
WE ARE ONE北上の代表・佐藤尚美さんは、コミュニティナースについて、初めは地域の住民の方々が元気でい続けるために取り組み始めました。健康医療だけでなく、社会性もしっかりと持ち続けてもらえるように、街の保健士さんのような、気軽に話をできる存在を目指しました。
実際に地域おこし協力隊の募集によってコミュニティナースとなった方の中には、大分県出身の女性・平野亜紀さんもいらっしゃいます。平野さんはそれまで九州以外で働いたことはありませんでしたが、北上地区の人柄に惹かれたとお話しされていました。出会いから出会いが生まれた瞬間なのだと思いました。
コミュニティナースの仕事には正解はありません。平野さんはコミュニティナースとしての地域への関わり方を自分なりに考え、現在では一対一の個別で関わる在り方を大切にしています。その中でも特に、地域の中での気づきを共有し、住民の方へのサポートをしていきたいということです。
また、身近な人には言えない話を聞く役割としてもWE ARE ONE北上を知ってもらいたいといいます。支える側・支えられる側の区別をなくし、地域のつながりを可視化することを目的とされています。
お年寄りの生活スタイルが変化していく中で、社会性を担保することは行政では限りがあるため、事業化していかなければいけませんが、継続的な活動を維持するため、経済的にどのように支えていくかが課題です。限られた時間の中での、平野さんのこれからの活動に注目していきたいと思います。

10月19日(月)放送分

仙台市若林区 トレビ不動産
才津和夫さんへのインタビュー
後藤 舜アナウンサー 取材レポート

若林区にある「トレビ不動産」の才津和夫さんを取材しました。才津さんは長崎の五島列島出身で、東京での生活を経て宮城に移住してきました。
才津さんが不動産会社をオープンしたのは、2012年。震災前までは多賀城市明月で「トレビアンランチ」という弁当屋を営んでいましたが、震災によって大きな被害を受け、震災後に資格を取って不動産の仕事を始めました。
震災発生時、才津さんは利府町にいて、先に避難した人たちからの知らせを受け、間一髪で津波から逃れました。家族は無事でしたが、会社は壊滅的な被害を受け、再開するのを諦めました。
奥様からの助言で、宅建の資格を取る、という没頭できることを見つけ、少しずつ前を向き始めることができた才津さん。震災翌年の2012年6月に拠点を仙台市に移し、「トレビ不動産」を開業しましたが、震災でダメージを受けた多賀城市と仙台市では大きな温度差を感じたといいます。そんな中でも、仙台市若林区で開業を決めたのは、周囲の同業他社の方の支援や指導などがあったからだそうです。
不動産会社を始めて8年が経過し、才津さん自身、会社のある薬師堂周辺の街並みの変化を感じています。新しい建物や大型店舗が増え、住みやすくなりました。たとえ街並みは変わっていったとしても、地域に密着している不動産会社として頑張っていきたいとお話しされていた才津さん。震災後周囲の環境が大きく変化する中でも頑張ってこられたのは周囲の方々のおかげだとおっしゃっていたのがとても印象的でした。

10月19日(月)放送分

山元町 震災遺構中浜小学校
長南 昭弘ディレクター 取材レポート

山元町の「旧中浜小学校」が震災の伝承施設「震災遺構」として開館し、一般公開が始まりました。震災当時、校舎にいた児童や教師など90人が屋上に避難し、全員が無事救助されました。当時校長だった井上剛(たけし)さんは避難指定場所への移動は不可能と判断し、校舎屋上への非難を決断しました。井上さんは現場で判断することの難しさを痛感したといいます。数少ない情報の中でその場にいた全員が助かったのは、頑丈な建物と、地元の方の備えとして、工事中に2メートルのかさ上げが行われていたからでした。90人もの命を守った校舎は、当時の人々の気持ちに寄り添うことができる、地域の方々の心の拠り所となっています。
震災後、住んでいた場所に近づくことができないという方々も多くいらっしゃいます。いつの日か故郷の記憶をたどる道標として校舎の存在を広く受け入れてもらい、震災の伝承に繋がっていけばいいなと感じました。