Archive for コーナー

11月19日(月)放送

気仙沼市 OCHACCO 代表 内藤康生さん
伊藤晋平アナウンサー取材リポート

2018年5月1日に女川町プロムナードに商店街に店舗を構えたOCHACCO の代表 内藤康生さんにお話を伺ってきました。気仙沼市出身の康生さんが、お姉さまの裕里江さんとともに立ち上げた日本茶のフレーバーティ―ブランド「OCHACCO」は、お茶っこ飲みの現代スタイルに合わせてアレンジ、日本茶の魅力を広め、日本茶を通じて東北を盛り上げようと2017年に創業、今回女川町に店舗を構えました。
店舗内のインテリアなどは、自分たちで手掛けてきたので、女川町に新店舗が完成した時の喜びはひとしおでした。オープン後、店舗での営業は常連さんも多く、お茶っこを楽しむ人できにぎわっています。日本では珍しい炭酸入りの日本茶など、ここでしか味わえない日本茶の楽しみ方ができる場所となっています。
今後、季節毎に楽しめる「新しい日本茶の楽しみ方」をどんどん提案し、県内だけでなく日本中、世界中のお客様が訪れる日が来ることを祈っています。女川町に拠点を構えた「OCHACCO」、街の盛り上げにも一役買っていくことになっていくでしょう。

石巻市鮎川 鮎川港まちづくり協議会 齋藤富嗣会長

鮎川は、今、鮎川浜拠点地区の復興に向けてたくさんの施設がオープンに向けて整備されています。
震災前を超える観光客の誘致を目指し、2019年秋に「観光物産交流センター」「ビジターセンター」、2020年秋には「おしかホエールランド」がオープンを控え、現在、3施設が建設されています。
新しい観光のスタイルを築き上げるため、体験ツアーやワークショップ、その他イベントなどで盛り上げようと、まちづくり協議会ではいろいろと準備をして大忙しです。
鮎川といえばクジラ、というイメージを大切にしつつ、牡鹿半島の自然や文化など生まれ育った町の文化を継承しながら各施設の新オープンを待っています。地域の人々との連携、つながりはどの地域にも負けません、今後も鮎川に注目してください。

4月17日(月)放送

石巻市 元石巻小学校教頭 斉藤悦美さん
災害時の小学校の防災対応について考える
古野真也アナウンサー取材リポート

 石巻市門脇町にお住いの斉藤悦美さんは、震災時は石巻市立橋浦小学校の教頭先生をされていました。地震発生時は、大きな揺れに、子供達も尋常じゃない雰囲気を感じ取っていたと、思い返します。学校からその日に両親が連れて帰った子供の中には津波で亡くなった生徒もいました。
 地震の後はそのまま橋浦小学校が避難所となり、一時300人を超える人々が学校に避難してきました。学校ではその後すぐ、地区ごとに教室を割り振っての避難生活が始まります。避難所で斉藤先生は、市役所の方々と一緒に食事の管理、運営の補助に当たります。
その中である子供たちの異変に気が付きました。黒板に地震や津波の絵をかいたり、人々が逃げたりする絵をかいて遊んでいたことです。それは、「津波ごっこ」でした。
 当時、その遊びは、居住内で子供や親族をなくされた人もいたため、不謹慎かもしれないと思い、止めるべきか心療内科医に相談します。しかし心療内科の先生は「これは、子供たちにやめさせないでほしい」と言ったそうです。この遊びを通してつらかった思いや自身の中で消化できないことを「あそび」の中でストレスの発散させている、ということでした。やめてしまったら今後に影響を及ぼしてしまう可能性があったのです。異常な状況下での生活、現在振り返ると「あの対応でよかったのか、学校としてできることがなかったのか」今でも自問自答が続いています。
 その後、斉藤さんは教壇に立つにあたり「学校として何ができるかを実行に移すのはとても難しいが、とにかく平常心で、学校は学校という環境を整えることが一番。通常の授業を変わらずに行っていくのが役割である」という思いで生徒と向き合いました。
 震災後は「経験の共有」をもつため生徒たちとたくさんの話をし、お互いの理解を深めることが「心の復興につながる」と分け隔てなく子供たちと接する時間を大切にしたそうです。現在、斉藤先生は退職されていますが震災を直接経験した子供たちの〝心を救う”大切さをひしと感じたようです。

女川町「女川桜守りの会」 藤中郁生さん
林朝子アナウンサー取材リポート

 女川町の津波で失われた桜を復活させようと活動している「女川桜守りの会」を取材しました。現在は地域住民およそ20人が参加し桜の植樹などを続けています。今回は事務局長を務める藤中郁生さんにお話を伺いました。
震災後の2011年4月に、藤中さんは女川町で「桜」を発見しました。震災後に桜の木を見つけるなんて思ってもみませんでしたが、いつかこの桜が町のシンボルになるようにとこの桜を「津波桜」と呼び、保存活動を始めます。これこそが「女川桜守りの会」の活動のはじまりとなります。津波を免れた桜の手入れをしたり、全国各地から提供された桜の苗を女川町の各所に植樹したりして活動しています。
 藤中さんはここ女川町では、町中に桜が咲いていたため、「花見」をしたことがない、する必要がなかったと振り返ります。その桜がある街の風景を復活させようと、震災前にあった当たり前の風景を取り戻そうと藤中さんはメンバーと一緒に今も尽力されています。津波桜は、枯れた桜もありましたがその「存在」を残そうとした結果、
 先月、「花咲き地蔵」として高さ40センチほどの大きさとしてシーパルピア女川の一角に安置されました。
今では、お地蔵様の隣に3mほどの桜の若木も出現し津波桜の「孫桜」が枝を伸ばし新芽をつけています。花を咲かせるのは難しいかもしれませんが、これから数年かけて立派に咲いてほしい、と女川桜守りの会の方々は願っています。
 浦宿からトンネルに入り、そこを抜けると女川町。そこにいつか桜並木のトンネルができたら、この町は”桜の町”になっていくかもしれないと期待を膨らませます。「女川の桜の町に」を合言葉に現在も精力的に植樹活動を継続しています。今後は地域の子供たちも巻き込んでいきたいと、未来への夢をお話しくださいました。

4月3日(月)放送

今夜は、3月11日(土)の東日本大震災特別番組「絆みやぎ明日へ」から、「震災6年の手紙」と題していただいたお便りを紹介します。
(読み手)
藤沢智子アナウンサー
伊藤晋平アナウンサー

1月9日(月)放送

あけましておめでとうございます、2017年も宮城県内の震災後の様子をくまなく取材していきます。どうぞよろしくお願いします。
 さて、本日は毎年恒例(!?)、岩沼市の復興に尽力されている谷地沼富勝さんに3年連続お越しいただき「岩沼の今」をお伝えいただきます。
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岩沼市では集団移転が行われていてコミュニティ面ではソフトの充実がさらに必要になってきました。2016年は熊本地震で被災した熊本県の益城町にも訪れ被災地同士の意見交換を行いました。岩沼市にある「みんなの家」はもともと益城町からスタートしたこともあり、交流を継続しながら支え合っています。

また、岩沼市は「みやぎしろめ」の発祥の地ということで、「岩沼みんなの家」ではクラウドファウンディングを利用して日本全国、世界へ「まめもち」を発信したいと考えています。
まだまだみなさんの力が必要です。
お力添えを頂ける皆さま、興味のある方は「岩沼みんなの家」HPまでご連絡ください!

10月17日(月)放送

亘理町 すし店「あら浜」 塚部 久芳さん
リポート 佐々木淳吾アナウンサー

東日本大震災の津波で流された亘理町荒浜のすし店、その名も「あら浜」。
ご主人は、震災後5年以上仙台市内でお店を営業していましたが、今年8月にやっと地元荒浜で復活を成し遂げました。
 亘理町はいま、サケとイクラを使った郷土料理「はらこ飯」の季節を迎えていて毎日多くのお客さんで賑わっています。営業を再開したいま、一番先に地元のお客さんが来店。「待ってたよ!お帰りなさい」との言葉を聞いて本当に帰ってきてよかったと塚部さんは心から感じています。
 自分の命に代えても守りたかったお店は、震災時に津波にのまれてしまいました。一時は廃業も考えましたが、ガレキの中にたまたま残っていたお店の古い暖簾や看板、そして一生懸命にガレキを片づける従業員の姿を見つけた時に「戻ってこい」と言われているように感じたそうです。店の再開には時間がかかりそうだと思っていましたが、2011年の8月からは仙台市内のデパート三越から声がかかり、翌年には、仙台市青葉区本町ですし店の営業を始め、今回震災から5年5カ月を経て元の場所、亘理町荒浜での営業再開にこぎつけました。
 全てが順調に進んでいるような印象ですが、塚部さんは仙台市内でお店が繁盛した半面、慣れない場所での営業に疲れ一時は心身のバランスを崩して入院したこともあったそうです。ただ跡取りの息子さんの「俺がこの店を守るから」というひとことで、安心し励まされ現在まできたそうです。
 昔から亘理町に伝わる郷土料理「はらこ飯」を、地元の食文化として先代から受け継ぎ、自身が次世代へ繋いでいく責任感、覚悟も生まれました。復活を成し遂げた塚部さんのお店は11月頃まで「はらこ飯」を求める人で賑わいそうです。お店の制服には「感謝」という文字がプリントしてあります。塚部さんの思いが書かれているような、そんな印象を受けました。

気仙沼支局 重富記者電話リポート
「気仙沼の今」

気仙沼では、市の人口減少対策に取り組んでいます。
今月から移住や定住を目指す人に向け仕事・住まいの情報など特に暮らしに関わる情報を提供する新しい相談窓口「移住・定住支援センター」を開設し運用しています。
この取り組みは、外部から三陸沿岸、気仙沼に拠点を移す人の不安を払しょくする窓口で、従業員は、震災後に他所から気仙沼市にやってきた若者たち。初めての土地での生活の不安を、境遇が一緒の若者たちが同じ目線・同じ気持ちでアドバイスするというものです。お試し移住の前段階の手伝いも手掛けます。
 さらに気仙沼市での現在の一番の課題は「住まいの確保」。実際に気仙沼市は多くの住宅が被災したため災害公営住宅や防災集団移転が多く必要となっていて、簡単に住まいを見つける状況にありません。
そこで、市の調査でわかった市内の空き家を活用する「空き家バンク」を設立、利用希望者に物件を紹介するというものです。現在バンクに登録されている空き家は2件、来月はあと5件ほど増加する見通しだそうです。制度が知れ渡るようになれば、手をあげる家主は増える見込みとのことです。
今後の復興のためにも、空き家バンクの取組が、被災地のいろいろな問題の解決の切り札になることを期待します。